第一回 広報の視点(前編):世の中の情報の「重心」を読む


スタートアップにとっての広報は、単なる情報発信ではない。時流を読み、誰に、何を、どう伝えるかという判断の積み重ねが、事業の成長そのものを左右する。だからこそ、広報は経営である。
本連載では、スタートアップ広報を第一線で担うプロたちを招き、その知見を共有してもらう。戦略の考え方から日々の実践ノウハウまでを紐解き、広報に向き合うすべての人が明日の実践に活かせる視点を届けたい。
第一回は、日米を拠点とするベンチャーキャピタルのWiLでSenior Director of PR & Marketingを務める才木祐人(さいき ゆうと)氏。JR東海、ウーブン・バイ・トヨタなどで広報・ブランディングの現場を歩んできた才木氏が、「広報の視点」を語る。
前編では、データや言説の全体を見渡し、世の中の情報の「重心」を見定める考え方を紹介した。後編では、辻村深月氏の長編ミステリー『ファイア・ドーム』を手がかりに、数字には表れない「空気」の読み方を読み解く。
本作は、著者である辻村深月氏のデビュー22周年を記念して刊行された上下巻の長編ミステリーです。執筆開始から7年、原稿1500枚に及ぶ大作であり、累計発行部数は6月上旬時点で26万部に達しました。舞台は山間の地方都市。25年前にこの街で起きた百貨店受付嬢の誘拐殺人事件をめぐる「噂」が、物語の鍵となっています。
『ファイア・ドーム』というタイトルの由来を、著者は刊行に際して発表したコメントの中でこう説明しています。「振り動かせば雪が舞い散るスノー・ドームに眠る街に似た、山間の地方都市が舞台です。その街の底には、普段は見えないけれど、振り動かせば炎が沈んでいる。過去に起こった誘拐殺人事件にまつわる噂が、その炎です」。
この比喩が示すのは、噂という炎が持つ二つの性質です。第一に、炎は普段「見えない」こと。平穏な日常の底に沈んでいて、何かのきっかけで街が振り動かされた時に立ち上ってきます。第二に、街がドームという「閉じた空間」であること。狭いコミュニティの中で燃え上がった炎に対して、渦中の人には逃げ場がありません。
重要なのは、この炎を構成する一つひとつの会話には、ほとんど悪意がないという点です。井戸端のひそひそ話、善意からの心配、あの家も大変ねといった類の同情。どれも発した本人にとっては、日常会話の域を出ない軽い言葉です。しかし、閉じたコミュニティの中で同じ対象に向かって集積した時、それは当人にとって顔のない集団から浴びせられる悪意そのものになります。集団の悪意の総量は、個々人の悪意の合計ではありません。構造が悪意を生むのです。
さらに、物語が四半世紀という時間をまたいで描かれている点にも意味があります。噂自体はSNSが発明したものではなく、SNSはあくまで人が昔から持っている性質を増幅し、可視化する装置に過ぎません。この認識は、炎上をプラットフォーム事業者の問題として片付けがちな私たちの見方を静かに正してくれます。

作中で象徴的なのは、噂の炎が事件の加害者だけではなく、被害者の側にも降り注ぐことです。例えば、版元が本作の宣伝文句に使っているのも、被害者遺族の「もう言われてるよ! どうせ、親が殺したんだろうって!」という叫びです。最も守られるべき遺族が、真っ先に憶測の対象になる。噂の炎は正義の顔をして、誰よりも深く傷ついた人に向かって流れていきます。
著者はインタビューで、噂の危うさをこのように説明しています。「衝動的で底の浅い犯行であっても、人はその裏に深い物語があるはずだと推理や憶測を走らせ、より分かりやすい筋書きのほうを信じてしまう。そして、自分だけが知る真実だと思い込み、親切心や使命感からそれを広めてしまう」。そもそも、憶測は情報の空白に生じるものです。そして説明の機会を持たない人、声を上げにくい立場の人ほど、その空白が大きくなります。だからこそ、こうした人たちが真っ先に噂の燃料にされるのです。
しかも、噂を口にする人々に加害の自覚はありません。彼らは「関心を寄せている」だけであり、渦中の人がどうなろうと本質的には無関心です。著者は、人が自ら作り上げた物語に他者を巻き込み、消費してしまうことへの怒りを一貫して小説のテーマにしてきたと述べています。批判よりも恐ろしいのは、消費とその後の無関心であり、本作が突きつけるのはこうした問いです。
本作を通じて得られる視点を、広報実務に活かすアクションとして以下の三つにまとめます。
1. 「悪意の発信源」ではなく「情報の空白」に対処する
噂の炎の正体が悪意なき関心の集積である以上、危機対応で向き合うべきは発信源の特定ではなく、憶測が入り込む情報の空白です。空白を可能な限り埋めるため、事実に基づいた正確かつ適時な情報発信こそが、有事においては最も有効な消火活動になります。
2. 平時から「ドームの底の炎」を観察する
自社や業界に向けられた感情や不満は、普段はほとんど目に見えません。そのため、ソーシャルリスニングや自社名・経営者名・プロダクト名などによるエゴサーチを通じて定期的に確認し、自社が何かのきっかけで「揺さぶられた」時、どんな炎が立ち上りうるかを平時から想像して備えておくことが重要です。これは前編でお伝えした、世の中から自社がどのように見られているかを客観的に理解しておくという広報の基本動作とも地続きです。
3. 自社の発信が誰かを「消費」していないかを問う
社会課題や当事者に言及する発信は、意図せず誰かを物語の素材にしてしまう危うさと隣り合わせであることを自覚する必要があります。何かを公開する前に、その文章が当事者の目にどう映るかを一度想像してみる。このひと手間が、発信後に反発や思わぬ副作用が生じる可能性を減らしてくれます。

優れた小説は、綿密な取材と時代の観察に裏打ちされた集団心理の解剖図と言えます。とりわけ、著者自身が身近に体験した事件と噂を起点にしながら、取材と改稿を重ねて書かれた本作のような物語には、個々のニュースが断片としてしか伝えられなかった「世の中の空気」そのものが凝縮されています。
だからこそ、こうした現代小説を読む経験は、広報に携わる者にとって単なる教養にとどまりません。世の中の流れや雰囲気を、報道の見出しを追うだけでは届かない解像度で、しかも他人事ではなく自分事として捉える訓練になります。こうした感覚があると、自社の情報発信が社会のどこに位置付けられるのか、自社の存在意義をどんな言葉で伝えるべきかを、俯瞰的に考えられるようになります。
本作に寄せられた書店員や読者の感想には、自分の好奇心もまた見知らぬ誰かを追い詰めたかもしれない、という趣旨の受け止めが見られます。それは、この物語を「自分事」として読んだ人がそれだけ多かったということでもあります。広報を一人で、あるいは初めて担う方や、自ら発信の前面に立つ経営者にこそ、日々の情報発信の合間に、小説を読む時間を意識的に持っていただきたいと思います。
【出典】
・『ファイア・ドーム』特設サイト、株式会社小学館プレスリリース(2026年4月16日、5月29日)
・「辻村深月『ファイア・ドーム』インタビュー」NEWSポストセブン(2026年6月5日)
・「辻村深月の最新刊『ファイア・ドーム』、発売わずか3日で10万部増刷決定!累計26万部突破」ほんのひきだし(2026年6月9日)
Writer
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株式会社WiL / Senior Director of PR & Marketing
京都大学教育学部を卒業後、東海旅客鉄道株式会社(JR東海)に入社。リニア中央新幹線やエクスプレス予約などの広報、ブランディング、マーケティングを担当。2020年、カーネギーメロン大学にてMBA修了。同年よりトヨタ自動車のソフトウェア開発子会社であるウーブン・バイ・トヨタ株式会社に入社。ウーブン・シティを始めとする各プロジェクトの PR・ブランディングを担当。2026年1月、WiLに参画。
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